ゲームはモードレスなのか?

OOUIの話をしているとゲームとの関係を聞かれることがあります。不思議なことに「ゲームはほとんどオブジェクト指向だ」と言う人もいれば「ゲームはほとんどタスク指向だ」と言う人もいるようです。さて一体どちらなのでしょうか。

また、時々ツールとしてのソフトウェアのUIデザインを改善するために「ゲームみたいにすれば良い」という意見を目にすることもあります。しかし、ツールをゲームにするだけで使いやすくなるかというとそうでもなく、使いにくくなることもあります。

たいていの人は、仕事を済ませたいと思っている時には、ゲームをしたがらないものです。

ジェフ・ラスキン『ヒューメイン・インタフェース』

また、楽しいゲームであっても、アイテムなどの一覧を扱う時や、設定画面などで使いにくさを感じることはよくあるので闇雲にゲーム化しても意味はなさそうです。

『あつまれどうぶつの森』の最も使用頻度が高い所持品一覧は種類に基づいたアイコンが並んでいる。同種のアイテムは同じアイコンになるため、アイテム名称をひとつひとつ選択して確認しなければならない。アイコンとアイテム名のプロパティを持つ一般的な一覧を用意することで改善される。

もっと言えば「ゲームみたいに」がなにを指すのかは人によって異なっているのです。そこでまずは、一度そもそもゲームとは何か、そのUIとしての性質や傾向は何かについて考えてみようと思いました。

大前提としてコンピュータゲームは様々なものの集合体と化しており、ひとつのゲームという単位で扱う意味はあまりありません。おそらくゲームの象徴的な部分ごとに考えることになりそうです。

また、ゲームは何らかの物理空間を使ったり、物理空間を模したゲーム空間を使うことが多いです。そのため物理オブジェクト、もしくはそれを模したオブジェクトで構成されることになります。この点から言えばゲームは非常にオブジェクト指向的です。

ただし、物理オブジェクトを模すという道はツールとしてのソフトウェアのデザインにおいては新しい話ではなく「通ってきた道」でもあります。書籍『About Face 3』ではメタファを「ユーザーインターフェイスやインターフェイスデザインのコンテキストでメタファというときには、実際にはビジュアルメタファ、すなわちものの属性や目的を表すために使われている画像のことを指している。」とした上で問題点を指摘しています。

メタファは初めて使うユーザーの学習という点では小さな効果があるが、初心者が中級者になった後は高くつく。ほとんどのメタファは、物理的な世界のメカニズムを反映しているので、ユーザーのコンセプトを地面にしっかりと釘づけにしてしまうが、その分ソフトウェアの力が制限されてしまうのだ。

『About Face 3』

そして、現実世界のものをソフトウェアの世界に持ち込むことで発生する問題についても例を挙げ指摘しています。

しかし、メタファの最大の問題点は、インターフェイスを機械化時代の人工物に縛りつけでしまうことだろう。その極端な例は、1990年代半ばに General Magic が鳴り物入りで市場に投入したハンドヘルドコミュニケータ、Magic Cap のインターフェイスだ。Magic Cap は、インターフェイスのほぼすべての側面でメタファを多用していた。メッセージには、机上のノートとして表示されていたインボックスからアクセスする。廊下を歩いていくと、副次的な機能を表すドアが並んでいる。外に出ると、サードパーティサービスにアクセスできる。これらのサービスは、道の横に並ぶビルとして表現されている。ビルに入ると、サービスを設定できる。このようにメタファに強く依存していたので、ソフトウェアの基本的な機能は直観的に理解できたが、機能を理解した後は、ナビゲーションのオーバーヘッドがメタファのおかげでかなり重くなってしまう。他のサービスを設定するためにはビルから通りに戻らなければならないし、ソリテアをするには、廊下を歩いてゲームルームに入らなければならない。物理的な世界ではそれが普通だが、ソフトウェアの世界でそんなことをしなければならないいわれはない。このようなメタファへの隷従を捨てて、機能への簡単なアクセスを提供すべきではないか。General Magic のプログラマは、後になってブックマークによるショートカット機能を付加したが、遅きに失したし、ささやかにすぎた。

『About Face 3』
Magic Cap では現実世界を模したオブジェクトが画面に配置されている(Computer History Museum

実際に物理世界を模したマップを提供しているゲームでも移動がわずらわしくなるため、物理メタファだけでなくメニューというイディオムによるショートカットが併用されていることもあります。

『スプラトゥーン3』は物理世界を模した街を歩いて店に入ることができる(上)が、メニューというイディオムによってショートカットできるようになっている(下)。
『Pokémon LEGENDS アルセウス』では地図から任意の地点に移動することができる。街の地図から表門前を選択して移動する様子。

メタファにしている物理世界とデジタルの世界の辻褄をあわせようとすることの混乱についても以下のように記しています。

ブレンダ・ローレルがいっているように、「インターフェイスメタファは、まるでルーブ・ゴールドバーグ・マシンのようにずるずると連鎖する。不都合が起きるたびに張り合わせたりくくりつけたりといった修復を繰り返し、その跡が分厚く重なって、しまいにはもともと何を表していたのかがわからなくなるくらいになってしまう」。優れたユーザーインターフェイス設計には強力なグローバルメタファが必要だと教わったからといって、夢の電話インターフェイスを作ったデザイナが、古い電話とまったく同じものを作っているのを見ると愕然とする。

『About Face 3』

こういったことはゲームではよく発生しています。戦いではダメージを受けるけれども、プレイヤー同士が移動時にジャンプによって頭の上に乗ってもダメージは受けません。また、プレイヤーが持っているアイテムは、大抵は物理世界で持てる数より多いですし、クローゼットにも物理世界では入りきれないほどのアイテムがなぜか収納できます。かと思うと、アイテム数には一定の上限があり、その上限を超えるには別のアイテムが必要であったりと世界観がちぐはぐになっていることもあります。

『Pokémon LEGENDS アルセウス』の放牧場画面。複数ある牧場を切り替えるコントロール、選択された牧場のポケモン一覧、その詳細が表示されている。画面左にはプレイヤーとともにするポケモンの一覧が表示される。放牧場は複数あり、一つの放牧場に入ることのできるポケモンの数は上限がある。この画面ではメニュー形式のイディオムを用いているが物理メタファ由来の放牧場という単位で切り替えながら入れ替える必要がある。物理世界を模した放牧場でポケモンを参照できるという世界観だが、離れた場所からも放牧場を参照できるようにもなっていて物理メタファとしての整合性が低くなっている。
『ポケモン GO』のポケモン一覧画面。捕まえた全てのポケモンが一覧されている。タグで絞り込むこともできるようになっている。必要に応じてタグで分類、フィルタリングすることも可能でよりソフトウェアの良さを発揮するUIデザインになっている。全体の上限数はあるがアルセウスのようにどの放牧場に分類したかを把握しなくても使うことができる。

こういった点から、必要以上に物理オブジェクトを模すことはむしろUIデザインの歴史から見ると後退になってしまうことは頭に入れておく必要があります。

ゲームの種類

さて、ゲームをしていて自由を強く感じる場合とそうでない場合があります。ゲームもどうやら種類があるようなのです。

しかし、ゲームデザインの本をいくつか読んでみても、ゲームジャンルについての話、ステージの作り方、ゲームのマップのパターン、誘導のためのテクニックは載っていても、自由の観点からの記述をなかなか見つけることができません。

私は徐々にゲームにおける自由、もしくはオブジェクト指向UI、もしくはモードレスネスの観点での考察に興味が湧いてきました。

いくつかのゲームで遊ぶだけでなく、Roblox Studioというゲームの開発ツールを使ってみることでも得られるものがありました。やがて私はゲームを次の2種類に分けてみようと考えました。

1つめは「競技としてのゲーム」です。プレイするゲームと言ってもいいかもしれません。

何か勝ち負けがあるものや、クリアするものです。コンピュータゲームだけではなく、ボードゲーム、そのほか様々なスポーツ(英語にしただけですが)があります。

2つめは「創作としてのゲーム」です。メイクするゲームと言ってもいいかもしれません。

これはいわゆるグラフィックツールなどと同じです。お絵描きや音楽を作るゲームもあれば、ゲーム内に部分的に登場することもあります。アバターの作成、着せ替えなどです。

創作はゲームなのかという議論があるかもしれませんが、ゲームを作るゲームがあるくらいなのでゲームになり得ると言ってよいでしょう。つまり、ゲームの開発ツールすらも一種のゲームということになりました。

場の帰属性

余談ですが Roblox Studio ではマルチプレイのゲームを自作するのは容易です。ただ、何も手を施さないとゲームを起動するたびにリセットされます。プレイヤーは毎回、最初からやり直しになるわけです。

「競技としてのゲーム」は意外とそれでも成り立ちます。フィールドアスレチックのように下に落ちないように進むものや、かくれんぼや鬼ごっこのようなゲームもです。元々これらは、ある一定の時間が経過したり、何らかの結果が出るとリセットされるからです。スコアやコイン、レベルなどのちょっとしたデータがユーザーごとに永続化されていれば「続けている」感覚も残ります。

Roblox のかくれんぼゲーム『Mega Hide and Seek !』は一定時間でラウンドが終了する

それに対して「創作としてのゲーム」は起動しなおすと悲しいことになりました。例えば、街中の壁に複数人で落書きをするゲームがあったのですが起動しなおすと前の絵は残っていません。

Roblox の ゲーム『Spray Paint』では壁に絵を描くことができるが、再度入り直すと描いた絵は消えている

そういう意味ではがんばって絵を描くほど成り立たなくなってきます。これはグラフィックツールとして考えれば当たり前です。作った全ての制作データが永続化されないと使い物になりません。起動するたびにキャンバスが真っ白になるのは困ります。

よく考えてみると、ゲームといえどもマルチプレイで創作するということは、共同作業が可能なオンラインホワイトボードツールのMiro や 共同作業が可能なプレゼンテーションツールであるGoogleスライド を使うようなものです。何かしらの残るデータがないと成り立たないという当たり前のこともわかりました。

オンラインホワイトボードによって共同作業を行うことができる Miro

こういった違いがあるので、競技としてのゲーム空間は体育館やフィールド、コート、遊園地のアトラクションのようなものでプレイヤーが入ってプレイし、また出ていく構造です。

対して創作としてのゲーム空間はそういった誰かに管理されているところではなく、自分達の部屋のようなものでないと成り立たないと言えそうです。

そのためゲーム空間に対する自己帰属感はゲームの種類によって大きく異なることがわかります。

こういった視点でも、身の回りのゲームが2種類のどちらに近いのか見分ける目安にもなるかもしれません。

また、ゲームの作りによって「場」というオブジェクトが揺らぐ話として考えてもおもしろいです。

オンラインの競技ゲーム、例えば複数人で行うTPSの『スプラトゥーン3』では「マサバ海峡大橋」のように名前がついたステージがあり、そこで8名が戦います。時間帯によってステージが決まっています。つまり、実際には同時刻にその8名以外の多くの人も同じ「マサバ海峡大橋」というステージで戦っています。暗黙の了解として気にせずプレイしていますが実はパラレルワールドになっているわけです。プレイヤーからすれば世界はひとつのはずなのに、友人に電話すれば同じステージで戦っていると言われるのです。

無人島を開拓する『あつまれどうぶつの森』のオンラインプレイも同じです。オンラインプレイによって、友達が自分の島へ来たり、逆に友達の島へ行けるようになります。ところが、そのことによって世界が揺らいできます。それまでは自分の島が世界のすべてであったはずが、オンラインでつながることでパラレルワールドになってしまいます。自分の島にだけいるはずの「たぬきち」が、相手の島にもいるのです。

Roblox ではゲームのプレイ人数の上限があり、それを超えると別のサーバーへつながります。仕組みがわからないこどもだと、同じゲームに「はいった」はずなのに友達がいない、と感じます。パラレルワールド化によって、オブジェクトとしての場が不安定になるわけです。

オンラインゲームに慣れたプレイヤーにとってはこれは当たり前すぎる話で、そのときそのときで、サーバーという概念を意識したり、逆に没入のために無視することが暗黙の了解になっています。「たぬきちの本当の数を想像するのは野暮」というように。

Miro や Google スライドなどで共同作業する場合は、ファイルに「入る」感覚があります。ユーザーはそれぞれのファイルを別のものとして認識しているのでオブジェクトの揺らぎはありません。

ゲームで同じ感覚をユーザーがサーバーを意識せずに得ることはできるのでしょうか。それぞれのサーバーは別の世界である、という設定で辻褄を合わせるのはどうでしょうか。

うまくいきそうですが、サーバーごとにマップや登場人物などがランダムに生成されなければ、大抵はどのサーバーでも一見同じ世界が展開されます。「複数人のたぬきち問題」が発生し、パラレルワールドのように見えてしまうジレンマがありそうです。

競技としてのゲーム

ゲームに対してモードやタスク指向性を感じる場合がありますが、それは競技がモードを持ちやすいことに起因します。なんらかの試合の開始と終了があれば全体としては直線的になります。アクションゲームのスタートとゴール、ロールプレイングゲームの物語の開始と終了も粒度は異なりますが同じように直線的です。

全体の流れに加えルールで手続きが定義されていることもあります。制限が多くあると自由度は低下していきます。

ツールのデザインをする仕事柄、ゲームをするときに最初に違和感を感じるのは、タイトルが出てモーダルに「何かキーを押すとスタートします」と表示されることです。入力装置の特定などの意味もあるのだと思いますが、ゲームをやろうとしているのに、もう一度何かしないと本当にスタートしないということが気になるのです。(セーブデータの選択や、共有デバイスにおけるアカウント選択などはのぞきます。)

『あつまれどうぶつの森』では最初にタイトルと「Press A」というテキスト表示され、Aボタンを押すとはじまる

普段、ツールのデザインをしている時にこういった発想で作りません。例えばメーラーを使うときに「開始するには何かボタンを押してください」などとは出ないはずです。こういったアプリケーションのデザインでは可能であれば出来るだけ前回状態を維持するようにしたり、ローディング中であってもそれを感じさせないように、データが空の状態で一部を表示するなどの工夫が用いられます。例えば Apple の『Human Interface Guidelines』の「Launching」の項目のベストプラクティスとして次のように書いてあります。

Restore the previous state when your app restarts so people can continue where they left off. Avoid making people retrace steps to reach their previous location in your app or game. Safariの翻訳)アプリが再起動したときに前の状態を復元し、ユーザーが中断したところから続行できるようにします。人々があなたのアプリやゲームで以前の場所に到達するためのステップをたどらないようにしてください。

『Human Interface Guidelines』

入力装置の特定以外の意味としては、それはやはり「競技の開始」をするためではないでしょうか。スタートの笛、もしくはドジャーン!という銅鑼と同じです。考えてみれば競技には開始と終了があるのでタイミングをあわせる必要があります。勝手にはじまってしまってはそれが成立しません。(アーケードゲームではコインによってかもしれません)

このように、何か決まった直線的な流れを前提に行う競技というもの自体が一種のタスクであり、モードを発生させます。そのほかにも、次のようないくつかの要因でモードが発生します。

次はこれらについて少し考えてみることにしました。

物語

ゲームに物語を付与することがあります。わかりやすい要素で言うとゲーム中にムービーが挿入されるものです。

ロールプレイングゲームをやっている人や映画原作のゲームをやっている人からするとむしろゲームに物語はあって当然で、「付与することがある」というのは奇妙な言い方かもしれません。物語に没入して、登場人物になりきり疑似体験するためにゲームをプレイするんだと言う人もいるでしょう。

しかし、物語とゲームは同じではないはずです。ゲームと物語の違いは何でしょうか?

それはプレイヤーの主体性の有無です。ゲームから物語を取り除いてもまだゲームですが、ゲームからプレイヤーの主体性を取り除いてしまうとそれはもはやゲームではなくなります。それは単なる物語で、言ってしまえば小説や映画と同じです。主体性の面から言えば両者は相反するものです。

物語の構造は直線的です。そのため物語が付与されたゲームのプレイヤーは直線的にプレイすることになります。

物語を持つゲームの構造

物語が付与されたゲームは大抵複数のステージがあります。ステージ内には何らかのイベントがあります。そして、要所要所にあるタスクが連なった構造になっています。たとえステージ上を自由に動ける構造だとしても、シナリオが決まっている以上全体としては一つの方向へと向かう構造になります。そして進めるために何かしらのキーとなるタスクを行う必要があります。これがタスク指向的な性質を生み出します。

『Cuphead』のマップ。左から右へと進む。いくつかの関所があり一定の条件を満たすと通ることができる。(theyetee.com)

ここで行うタスクは例えば次のステージに進むための鍵を見つけることであったり、誰かから何かの依頼を受けてそれを実行することだったりします。

一方で、世の中には物語が付与されていないゲームもあります。

チェスや五目並べ、鬼ごっこ、かくれんぼ、トランプ、マンカラなど、いずれも競技ではありますが物語がないゲームは数多くあります。バスケットボールのようなフィジカルな競技も含めればその数はさらに多くなります。

物語が少なければ直線的な物語を進めるためのタスクも減ります。また、タスクが多少あっても直線的でなければ、やるかやらないかは自由ということになり、全体としては自分なりの方法で進められる度合いが高くなるでしょう。

タスクとは課せられるものです。ということはタスクをやってもやらなくても良くしてしまえばそれはもはやタスクではなくなるのです。

また、ステージとステージの間にキーとなるタスクが存在するのであれば、ステージをできるだけ少なくすることでタスクは減っていきます。

順序が決められていないオープンワールド型のゲームの構造

広大なステージを自由にプレイする非直線的なオープンワールドのゲームはタスクに縛られにくくなるのでオブジェクト指向的な性質があります。
(ここにはいくつかの程度があり、オープンワールド型であっても物語を付与すればするほどタスク指向的な性質が強くなり、プレイヤーの主体性は失われていきます。)

さてこのタイプのゲームに物語はないのでしょうか?もちろんプレイヤー全員が同じように経験する決められた物語はないかもしれません。ただし考えようによってはあります。それは自由な環境から生まれる世界でたった1つのユニークな物語です。

物語が付与されるゲームの代表はロールプレイングゲームです。(コンピュータ化される以前はロールプレイする人の演じ方に対してゲームの設定からみても妥当だとゲームマスターが判断すれば、アドリブ的な行動も許容されるなど自由度があったようです。しかし、コンピュータ化されたことで、こういった自由度は低下したように感じます。)

コンピュータのゲームの中でロールプレイングゲームは一大ジャンルとなっているのですが、ゲームの主体性という点から考えると実は異質な存在なのです。

異質ながらも大きなジャンルになっているので、ゲームを発想する際に深く考えずに物語を付与してしまうことがあるのではないかと感じています。

いずれにしても物語を取り入れる場合、そのことでプレイヤーの主体性を下げる可能性があることを意識しながらデザインしていく必要があるのかもしれません。特に物語の要素が強いものはゲームというよりもゲームブックとして、つまり分岐する本として捉える方が位置づけが明確になるかもしれません。

会話メタファ

ゲームは現実世界の会話を模した見立てを行うことがよくあります。

例えばアイテムを入手する際に接客を受けることがあります。プレイヤーとアイテムの間に店員が立ちはだかります。関心の対象であるアイテムを手に入れるためには会話をする必要があります。

プレイヤーと店員が会話でやり取りを行いアイテムは背後に隠れている

会話といっても現実世界のような自由度があるかというとそうでもありません。大抵ははいくつかの決められたセリフしか言いません。

会話の多くはモーダルに表示されます。会話の多いゲームは言ってみれば、頻繁にモーダルダイアログが表示されるUIと近い構造になります。

また、ゲームによっては店員が「何をしたいんだい?」と質問しプレイヤーは「買う/やめる」から選択するようなものもあります。プレイヤーが「買う」を選択するとようやく購入できるアイテムを見ることができるようになります。この場合は、オブジェクトを選択する前にタスクを選択する構造になってしまっています。

さらに選択肢のない会話もあります。同じ内容で何度も重要でないメッセージが強制的に表示される場合は、スムーズなプレイを妨げる大きな要因になります。

正常だということを伝えるために処理を止めないことは大切だ。何かが起きることがわかっていることが起きたからといって、それをダイアログボックスで知らせてはならない。どうしてもダイアログボックスを使うというのなら、通常は起きないことを伝えるために使うことだ。

『About Face 3』

メッセージボックスは、通常アプリケーションモーダルダイアログで、ユーザーが終了コマンドを発行するまで([OK]ボタンをクリックするなど)プログラムの進行を止める。ユーザーが応答するまでプログラムは続行できないので、これをブロッキング告知と呼ぶ。

『About Face 3』
『あつまれどうぶつの森』では店にはいった時、試着室を使う時、など複数のシーンでモーダルに毎回同じ内容の会話が表示され、ボタンを押すことを求められる。

物理世界を模した演出の一環だとしても、アクションが求められる会話は物理世界でもなかなか発生しないものです。

あたり前のことを知らせるために、この警告ボックスは処理を止める。やりとりしている相手がこのようなことをすれば、不快な感じがするだろうし、彼のことを横柄な人間だと思うだろう。

『About Face 3』

『あつまれどうぶつの森』は頻繁にモーダルな会話が表示されますが、ハートウォーミングな印象とは真逆の演出となってしまっている可能性もあります。

では反対の方向性には何があるのでしょうか?ユーザーの操作を妨げる必要のない会話はモードレスに表示することが挙げられます。


『プリンセスピーチ Showtime!』ではモーダルな会話だけでなくモードレスな会話があります。今行なっている操作が会話によって妨げられることがないため、スムーズにプレイすることができます。(2024/4/4 追記)

『プリンセスピーチ Showtime!』では会話(例「暗くて見えにくいぞ…」「入口はどこだっけ?」)がNPCの上部に表示されモードレスに情報を取得することができる

そもそもゲームでアイテムを手に入れる時に必ず会話が必要かというとそうではありません。例えば『あつまれどうぶつの森』でも落ちているアイテムを拾って入手することもあります。この場合はプレイヤーとオブジェクトを遮るものはありません。

プレイヤーの前にすぐにアイテムが表示される

同じようにいくつかのゲームでは店員との会話よりもアイテムの表示が優先され、すぐに購入したいアイテムを選択できる構造の店もあります。

『Cuphead』は店にはいると「ウェルカム」という声とともにアイテム一覧が表示される
『スプラトゥーン3』NPCに話しかけた直後の画面。会話は左側に表示され右側には選択肢が表示されている。多くの店はモーダルな会話がありボタンを押すことを求められるが、ここは操作を妨げることなくモードレスに会話が表示されている。

店員との会話を模すことで生まれた「アクション選択→オブジェクト選択」という構造の場合も、極端に言えば店員を棚のように扱うことで「オブジェクト選択→アクション選択」というオブジェクト指向の構造に改善することができるのだと思います。(最初だけ店員が喋る、喋る店員と棚を別にする、アイテム一覧の横に店員の姿があるなどバリエーションはあります。)

ダウンタイム

ゲームの中には待ち時間があります。ダウンタイムと呼んだりします。ダウンタイムとは操作がロックされている状態です。私は普段、モーダルとは他のことができず操作がロックされる、と表現することがあります。つまり、ゲームのダウンタイムとはある種のモードが発生している可能性があるということです。

例えばゲームの戦闘もその一つです。ゲームによって表現は様々ですが何かしらの「戦闘」が発生すると戦闘モードに入るタイプのゲームがあります。戦闘モードを終了するまで他のことができなくなっている状態です。

マップ上で敵を選択後、戦闘アクションをとる場合は、オブジェクト選択後にアクション選択していることになりオブジェクト指向的です。対して同じ戦闘でもランダムに発生する場合はタスク指向的です。

また、戦闘内においてもターン制で進むゲームがあります。どのように戦うのかを選択するモードが発生します。そして戦術決定後にその結果を待ちます。再度自分のターンが来るまではダウンタイムとなります。

ターン制はダウンタイムが発生する

このように何かダウンタイムが発生する場合は大抵何かのモードが発生しているのです。つまり、その待ち時間を減らすことでモードレスにすることもできます。

例えば戦闘モード自体を無くすことです。これは画面の切り替えを無くしシームレスにするという話ではなく、戦闘モード自体をなくすということです。アクションゲーム化と言ってもいいかもしれません。自分の操作が即時実行され世界に反映されるようになるからです。戦闘モードを持つターン制バトルのRPGは戦闘モード自体を持たないアクションRPGへ変わることでモードレスになるということです。

リアルタイムにアクションが実行されるとダウンタイムは無くなる

コンピュータゲームではなくトランプで考えても良いでしょう。「ババ抜き」のようなゲームには手番、つまりターンがあります。こういったゲームにはダウンタイムが発生します。もちろん戦術を検討する時間に使い、ダウンタイムとして感じにくいような工夫があるゲームもありますが、それでもダウンタイムがなくなるわけではありません。

一方でダウンタイムが少ないトランプのゲームもあります。「スピード」のようなタイプのゲームです。つまりここでもリアルタイム性が高いアクションゲームであればあるほどダウンタイムが減る、自分のアクションが即時実行され行動がロックされる時間が減り、モードレスになる、ということが言えるのだと思います。

ダウンタイムを無くすことができるのか?という点では、ゲームの根幹がダウンタイムを前提にしていれば無理でしょう。チェスや将棋から手番を無くすことは無理です。もちろん「リアルタイムチェス」というものを考えて手番をなくし、とにかく早く動かしたほうが優先されるゲームもできますが、別物になります。

リアル

現実の物理世界を模倣することをリアルであるとするならば、いくつかのリアルがあります。

例えば視覚的なリアルさです。グラフィック技術の発達によってこれからもますます発展していくことでしょう。

一方で自由度という意味でのリアルさもあります。物理世界では様々なものが操作できます。この意味でのリアルさを追求する場合、ゲームの作り手は操作可能なものとそうでないものを分けることができません。世界の端っこが唐突にやってくることもなく、永遠に続かなければいけません。球体マップであっても他の星を作る必要もあります。世界があるのは大きな方向だけでなく小さな方向もあります。煙であればそれを視覚的エフェクトではなく塵の集合として扱う必要があります。言ってみれば超高度な世界シミュレータが必要です。それをすべて再現することはコンピュータの処理能力、ネットワーク環境、ストレージの上限などから考えても一筋縄ではいかないことが容易に想像できます。そもそもその法則すらも解明されていない訳です。そう考えるとさまざまな研究者はすべて「世界」を研究しているように思えてきます。

視覚的なリアルさが発展すればするほど、無意識に期待される自由度も上がっていきます。しかし、現状では自由度に関しては劇的に上がっているわけではないようです。新しいゲームをやった際に、背景セットや小道具が美しくなっただけで自由度はそれまでとそれほど変わっていないと感じることも多いのではないでしょうか。

しばらくの間は、期待とのギャップはますます大きくなっていくのかもしれません。

そもそも競技としてのゲームであればその自由度は求められません。テニスの試合中に風が吹き、土が舞い、目にはいる、そういったことは起こり得ますが、コートを掘り、その下にある通路を見つけ、中を進み、化石を見つけるというスコープまで扱うかというと扱わないでしょう。こう言った意味でのリアルさを求めないのであれば、むしろ競技性がわかるようにある程度デフォルメすることが求められるかもしれません。競技としてのゲームであるかを考えてみると、こういった点でも影響があることがわかります。

創作としてのゲーム

最近やっていたゲームの中でこれらの点からタスク指向の度合いが低いと感じたゲームがありました。

それは Minecraft です。

もちろんコンピュータゲームは複雑化していて様々な要素の集合体になっていますので、すべてがというわけではありませんがモードレス性の高さを感じました。

まず一つ目の「物語」に関してですが Minecraft でゲームをスタートするとプレイヤーキャラクターはいきなり世界に降り立ちます。しばらくすると日が暮れ、闇の中に光る赤い目や攻撃をしてくる生物の存在に気づきます。そして自然とどうやって生き残るのかを考えながらプレイしていきますが、特定の目標がなく自由に自分がやりたいことをやりたいようにするのです。

また、3つほどの世界に分かれてはいるもののオープンワールド性は高くなっています。(さらにランダム生成マップです。上限はあると思いますが、固定的なオープンワールドよりも世界が永遠に広がっている錯覚を覚えます。)

世界全体がブロックでできていて、尚且つありとあらゆるブロックの改変が可能です。村の建物ですら自由に改変することができ、当然、村の中と外という境界自体がないのです。

Minecraft は家や木、地面も編集可能なブロックで世界が作られている (Minecraft)

グラフィックのリアリティはありませんが、ありとあらゆるものが改変できるため、世界に対する行動可能性という意味でのリアリティは衝撃的で群を抜いています。

次に二つ目の「会話メタファ」に関する点ですが、こちらもほとんどありません。ノンプレイヤーキャラクターである動物やモンスターだけでなく村人と呼ばれる人間的なキャラクターも会話をしません。話しかけるとちょっとした鳴き声のような奇妙な音を出し、すぐさま取引に必要な画面が表示されるのです。感覚としてはアイテムの入った箱を使用する時と同じなのです。

『Minecraft』では行商人との会話らしい会話はなく、すぐに交換可能な商品が表示される。

そして三つ目の「ダウンタイム」に関しては戦闘モードがありません。戦闘もターン制ではなくリアルタイムに戦うのでアクションゲームでもあるのです。

また、Minecraft はサバイバルモードだけでなく、クリエイティブモードというものが用意され、サバイバルモードでは入手手順が存在するブロックを最初から無制限に使用して遊ぶこともできます。ぱっと見は同じ要素でありながら大きく異なる2つモードを遊んで比べると「競技としてのゲーム」と「創作としてのゲーム」の性質がわかりやすいかもしれません。Minecraft のクリエイティブモードは簡易的な3Dグラフィックツールに近い印象を受けるはずです。

Minecraft のサバイバルモードは他のゲームに比べて自由ではありますが、それなりに暗黙的な手順や、戦いという「試合」があり、一応クリアが用意されています。クリアが用意されているということは「競技」でもあるわけです。クリエイティブモードではそういったものがなくなっています。

ゲームをモードレスにするいくつかのアイデア

最後にまとめとしてゲームをモードレスにすることについて記しておきます。

ゲームを「競技としてのゲーム」と「創作としてのゲーム」に分けます。前者は線形になりやすく要所要所でモーダルになりやすくなります。モードレスにすればするほど少しずつ後者に近づいていく傾向があります。また、前提として物理空間を模している点ではOOUI的です。(ただしツールとしてのUIデザインでは物理オブジェクトを模すというのは「通ってきた道」で、それをやったからといってソフトウェアの利点を活かす形で使いやすくなるわけではないという点は注意が必要です。)

一般的なUIデザインの知識やイディオムを使う

一般的なUIデザインの知識やイディオムを使うことでモードレスになります。特にツールとしてのUIデザインではすでに一般的になっているデザインパターンをゲームにおいても取り入れることで改善することができます。例えばモーダルに通知するのではなくモードレスに通知するように変える、などです。

Splatoon のニュースを見てみましょう。2から3になった際に、それまでは強制的に表示されていたニュースをスキップできるように改善されました。スキップするとニュースは画面上部に小さく表示され操作を妨げることはなくなります。

ニュースは通知の一種であると考えるとモードレスな通知のパターンが適用可能です。例えば、スキップせずとも最初から操作を妨げないようにニュースを画面上部に小さく表示し、詳しく知りたい場合は任意で表示できるようにデザインすることで、さらにモードレスにすることができます。

スプラトゥーン2ではモーダルに表示されていた45秒程度のニュースが、スプラトゥーン3ではスキップ可能になり、ユーザーが画面上部のミニプレイヤーによって任意のタイミングでニュースを表示する

ダウンタイムを減らす

ダウンタイムを減らすことでモードレスになります。例えばターン制をやめてアクションゲームにすればよりモードレスになります。これは自分の操作が即時実行されるようになるからです。

物語を減らす

物語を減らせばよりモードレスになります。一般的な物語は線形で手順を強制しやすい性質があるからです。

マップをひとつながりにする

マップをひとつながりにするとモードレスになるかもしれません。「かもしれない」のは、ひとつながりであることよりも、自由に行き来できるかどうかの方が重要だからです。オープンワールドの定義に「自由」が含まれているならモードレスに近づきます。しかし、「自由」が含まれず手順が強制されているならモードレスにはなりません。

会話メタファを分離する

会話メタファを分離するとモードレスになります。会話による操作は不明瞭なタスクから選択することが多く、モードにはいることを強制されやすいからです。擬人化されたNPCとの会話をオブジェクトの操作と分離することでモードレスになります。(例:アイテム購入において、棚と店員を分け、会話せずに購入できるようにする)

全てにアクセスできるようにする

全てにアクセスできるようにすることでモードレスになります。移動可能な場所、アイテム収集などにおいて暗黙的な手順があるとモードが発生するからです。ただし、移動する「競技」、収集する「競技」ならそのこと自体にゲーム性があるので除きます。

「試合」をしない

「試合」をしないことでモードレスになります。始まりと終わりがあることでモードが発生するからです。これはゲームを「創作としてのゲーム」に変えたり、試合するゲームだとしても終わりなき試合の場に降り立つゲームへ変えることを意味することもあります。一定時間内の「競技」をするゲームの場合、それ自体にゲーム性があり、それが楽しいのであればこのアイデアは不要になることでしょう。

物理世界からのインスピレーションをUIデザインにどう生かすか

ということでゲームとモードレス、OOUIなどを考える際にはゲーム自体がどういったタイプなのかを考えることでモード発生の要因などを整理することができそうです。さらに今回の考察は、ゲームだけにとどまらずなんらかの物理空間を模したUIデザインのアイデアを考える際にも転用できる部分もあると思います。

ソフトウェアのUIデザインにおいて物理世界から学ぶべきは名詞→動詞の順序で、物理世界のオブジェクトをそのまま模すことではありません。むしろソフトウェアの良さが発揮されるイディオムを用いてメンタルモデルを参考にデザインすることが重要になります。

ゲームの場合であっても同様です。ゲームは物理世界も模すことが多くこの点を意識していなくても、結果的に名詞→動詞の順序になることも多いかもしれません。一方で単に物理世界を模しただけだとソフトウェアならではの良さが発揮されにくくなってしまうので意識的にイディオムを用いる必要がありそうです。

ゲームのUIデザインならではの落とし穴

ゲームならでは注意点もあります。それは「娯楽性」の扱いです。

「使いやすさよりも楽しいUI」と安易に考えるのではなく「使いにくいから楽しくないUI」になっていないか注意する必要があるでしょう。ゲームのUIデザインの場合「娯楽性」は免罪符になりやすく、このこと自体にデザイナーが気が付きにくくなってしまう構造があります。しかし、ゲーム内の道具が使いにくいというのは、実際のスポーツで言えば、弾まないバスケットボール、履きにくいサッカーシューズ、すっぽ抜けてしまうテニスラケットのようなものです。それをどうにかすることにゲーム性がないのであればゲームを楽しむことができなくなってしまうでしょう。