トレーニングとしてのデザイン

デザインのトレーニングをする上でいくつかのチャレンジを行っている。その過程における自問自答を記録する。

「トレーニング」と呼ぶ

セミナーでもワークショップでもなく、トレーニングと呼んでみている。制作を通して得られるものを擬似的に得られるようにするため。デザインを身体性を伴う活動だと定義している。メタファは身体運動を行う活動全般で、例えばバスケットボール、例えばスケートボード、例えば図工。

ここでは競技性の有無は考えない。繰り返し身体性を伴って活動することでできるようになる性質に目を向け、デザインとの共通点を見出している。

このことから制作が基本となる。座学はそれに付随するものとして扱う。アラン・ケイの「Doing with images makes symbols」ではないが「制作をしながら抽象を得る」と考えている。

トレーニングであるため「試合」ではない。バスケットボールなどではプロの選手であってもトレーニングは行う。試合だけ行っていても得られない何かがそこにあるからだ。同じように経験が豊富なデザイナーであっても、実プロジェクトだけでは得られない何かがあると考える。

これらのことからデザインの「トレーニング」と呼ぶことにしてみた。

「教わらないこと」を教えられるか?

何を隠そう私自身は今自分が教えていることを教えられていない。もちろん先人の知恵や制作物が前提にあり、直接的、間接的にも多大な影響を受けている。

しかし、自身はトレーニングという形で教わっていない。

「教えることは学ぶこと」というくらいだ。であれば教えるだけだと、それは「教えられる人」を生むことにとどまる。「教えることで学ぶ」ような人を生むことも視野に入れてもよい。

私はデザインの森の中をごそごそとあっちへ行き、こっちへ行き、なにかおもしろそうな領域を感じればまとめてみたりしている。この非線形の活動を教えることはできるのだろうか?これは常にある疑問だ。そもそも厳密に考えると教えた時点で矛盾してしまいかねない。

言い換えれば私は自由に学んできたので、果たして「自由」を教えられるのだろうかというのがここまでのテーマになっている。

ただこの方向は筋が悪そうなので難しくは考えない。教えるというよりも話すだけだ、と考えてみる。教える、教えられるという関係は頭から外し、デザイナー同士で話をしている構図なら成り立つような気がする。私もほかのデザイナーの話を聞くし、自分の話もする。これが唯一、直接的に非線形のことが伝わる構図ではないだろうか。もちろん必ずではないが。これを「教える」の範疇で扱っていいのか正直まだわかっていない。

間接的にであればそれは「教え方」だったり「やっていること」なりを見て伝わる場合もある。もちろん反面教師にされることもあるだろう。

距離も様々だ。近い距離で教えていなくても、間接的に伝わることもある。直接的に教えていなくても、その人の性に合ったのだろうか。強く伝わることもある。これは全く関係ない場所で起こるので辛抱強く寝て待つしかない。10年なのか、20年なのかわからないが、不意にやってくる吉報を密かに楽しみにしつつ。

今のところ、私の中でトレーニングでは、直接的に自由を教えられていないと思っているが、こうやってきたという話をしている感覚でやっているのも事実だ。自由なデザイナーであれば私のやり方は話として聞き、いくらでも自由にデザインするだろう。そういうことを期待してあえて振り切ってスキルトレーニングのようなものとして位置付けている。自由とトレーニングは矛盾するようだが私の中では割り切った上で共存している。

道具を知ってデザインするのか?それともデザインすることで道具を知るのか?

特に経験がないデザイナーの場合、ツールの使い方でつまづくことがある。そこに時間がかかる。私も新しいツールをそれなりに使えるようになるまでには時間がかかる。言ってみればその時点ではデザインの話どころではない。

これをどう捉えるとよいのだろうか。事前にツールの使い方を学んだ上でデザインの話に進む、というのもひとつだ。

しかし、ちょっと想像してみる。ツール、それも制作のためのツールを学ぶというのであれば普通は制作しながら学ぶことになる。おそらく大抵は何かサンプルのようなものを作るだろう。筆を知らずに絵を描くことは難しいが、絵を描かずに筆を知ることもまた難しい。

ということはそこにすでになんらかのデザインが発生していると捉えてもよい。なんでもいいから作ってみることが大事だというかもしれないが、あまり面白くなさそうだ。どうせ作るなら意味のあるものがいいだろう。それに、そのサンプルが意味のないものでもその後の土台になってしまう可能性もある。

であれば最初からデザインの話の中で、その制作の中で、ツールを学んでも良いのかもしれない。

暇という創作の源泉

「必要は発明の母」という言い方があるが「暇」も創作において忘れるわけにはいかない。先ほどのツールの話もそうだが教える時間がネックになっている。教える時間を考えなければ、どこにどれだけの時間を使っても良い。自分の好きなタイミングで、自分が作りたいものが浮かんできたら、自分の思う表現で、自分がいいと判断する形で制作すれば良い。

この創作のタイミングは「暇」が必要だ。少なくとも私は暇だと何か描きたくなる。これはもしかすると、子どもの頃に、あまりおもちゃを買ってもらわなかったからなのかもしれない。暇を潰すおもちゃがないなら自分なりに自分で潰すしかない。描くことに没頭するともはや暇は感じない。

しかし、暇を作るというのも何か変だ。それに、暇だったからやったのか、暇じゃなかったとしてもやったのか、今となってはわからない。

それに、「逃避としての創作」だってあるはずだ。やりたくないことがある時ほど別のことが捗って仕方ない、というあれだ。あれは暇の真逆だ。いや、親戚かもしれない。時間を潰してやりたくないことが入る隙間をなくそうとしているという意味では。

そもそも人為的に暇を作ることは難しい。時間に限りのあるトレーニングだと尚更難しい。創作のための暇、なんてのはちょっと邪念があるし、そう言われた側は急に暇が暇ではなくなり、なんだかむずむずするだろう。なかなか難しい。

似たようなテーマで日常性がある。私たちは歩き方を習っていない。それでも歩いている。食事も同様だ。そしてこれらは日常的に行なっているので回数としては非常に多く行なっているものの、学んでいる意識もない。食べるのも面倒だ、なんてことはあるかもしれないが、基本的には頑張って食べるということは少ないだろう。歩くこと、食べることと同じ回数何かをほかのことを行った場合、その継続性を賞賛されることもあるのではなかろうか。そして苦労も感じるかもしれない。しかし、歩くこと、食べることは苦労するわけでもなく、私達は毎日行っている。意識も苦労もしなくても学ぶことができるのはひとつの理想で、自然なことなのかもしれない。

評価

これは難しい。やりたいのは客観的評価ができるところではないという言い方もできる。

仮に評価するならば、指標を作らなければならない、指標は競技を生みやすいのですぐにハックされてしまう。指標を満たす競技を作りたいわけではないのだ。

競技は敗者が生まれる。同意した参加者同士の競技は良いが、そうでないなら不要な敗者はいないほうがいいだろう。一定数の敗者が生まれる構造ならば努力と勝利を紐づける意味もない。

強い、弱い、美しい、醜い、賢い、賢くない、教養がある、教養がない、品がある、品がない、どの場合でもネガティブな評価は敗者を生むことは事実だ。これは偏見も含め反射的に感じてしまうこともあるのでなかなか根が深いのだが。

最も重要なポイントは、私自身が何かに没頭している時、指標競技に没頭しているわけでない。あるとすれば自分自身が「よくできた気がする」かどうかだ。他者によるデザインの評価という活動と本当のデザインプロセスとの乖離を感じる理由にもなっている。

一方で、私も他者の評価を聞いてみたい場面もある。自らが選定し望んだ人の意見を聞いてみたい時だ。

現状では主観評価を前提に行うしかない。そしてあえて競技的にはっきりとそのことを示す必要がある。

ところがここでまた問題がある。主観評価であっても良い基準をはっきりとさせればさせるほどそれは具象化される。

気がつけば、私が作った型をきれいに再現することをよしとする世界になる恐れもある。

これもまた悩ましい。型を示さず、暗黙的にすることもできるが、結局、型との差分を評価するのであればやっていることは同じだ。しかも、オブジェクトを示さず、後出しジャンケンのようになってしまうので余計に筋が悪いと考える。

ここでもこのあたりの考えは行き詰まりそうだ。あえて型を肯定してみよう。例えばディズニーランドにはミッキーマウスの描き方を習えるところがある。やり方通りにやればミッキーマウスが描ける。

確かにミッキーマウスしか、それも型通りのミッキーマウスしか描けないかもしれないが、それでも皆それなりにミッキーマウスを描いて帰っていくことができる。しかも参加する人は元々その型を描きにきているのだ。ここにおいては型がオブジェクトだ。

型を侮ることなかれ、ミッキーマウスを描ければ、今度はミニーマウスも描けるかもしれない。ミニーマウスからデイジーへ、デイジーからドナルドへ発展するかもしれない。具象から抽象を得れば応用が効くはずだ。

そしてこの応用の中には事前に予想できないものがたくさん生まれてくるはずだ。

結局のところ自由なデザイナーなら型においても自由に扱ってデザインをするので、これらの心配事は取り越し苦労になる。型を伝えると割り切ればその差分で評価してもよいのかもしれない。

原理、最小単位

教えることを複雑にはしない。「名詞→動詞」という極めてシンプルな原理を中心として、それを適用する場のバリエーションを持たせるようにしている。

無理に順序性をつけるつもりもない。言葉が矛盾しているかもしれないが、実態に即した非線形なデザインプロセスを念頭にしている。

レイアウトでも同じように「一覧と詳細」というシンプルな要素の組み合わせで大きなものを作るように考えている。

デザイン組織論というのも考えていない。組織的なデザインという概念があったとしても、最小構成単位はデザイナーになる。極論すれば個々のデザイナー、もしくはデザイナーに準ずる人の話に還元される。ここからはじめなければ組織論も何もない。

「なんでもよい」

回数を重ねるとフォーマットが固定化される。しかし「できればなんでもよい」を優先する。

文章よりも伝わりやすい形があるなら併用してもよい。自分ができる表現の範囲で自由に行う。

表現例としての漫画
健太「ふーむ なるほど。この時からすでにこういうことが考えられていたのか…。ねえ博士、この1960年代あたりが多くない?」
博士「そのあたりに今につながる研究がたくさんあるのう」

そのほか、一種のコミュニケーションなのでその時できる方法をとればよい。これは実際のデザインプロジェクトと同じだ。いや、もっといえば知り合いに連絡を取るのと同じだ。何かひとつの手段が使えなければほかの手段で、例えば対面できなければ別の手段を使うだけで堅苦しい決まりも必要ない。

もちろん手段が変われば同じことはできないかもしれない。では、実生活でそれが起きた時、連絡をとらなくなるのか?ならない。それと同じレベルで考える。

書いたものを読み返してみると、このテーマもまた森の一部で私はごそごそとあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていることがわかってきた。

The Art of User-Interface Design