「デザインはアートではない」という思考の次に
ここで言うアートとは「デザインはアートではない」と言う際に出て来る「アート」。 この場合のアートが何を指すのかなかなか難しいところ。
ここでは、「感覚による判断」としてみよう。そして、この話においては、「感覚による判断」は「論理的な思考」の対極に位置付けられているようにも思える。
まず「デザインはアートではない」と言いたくなる気持ちを考えてみよう。
例えば、
その人が意味を感じられなかった時。
その人が理解できなかった時。
その人がいいと思わなかった時。
こういった時だろうか。
「意味のないもの、よくわからないものを、自分の好き勝手に作ってるんじゃない。」と。
それはデザイナー(またはそのほか作り手)に向けた言葉かもしれないし、そういった製品やサービスに対しての言葉の中に出てくる。
「本当のデザインとはそのようなものではないんだ」と言いたいのかもしれない。
なので、よく「デザインはアートではない」という話とセットで、「デザインには理由がある」と言われる。
特に過激なものは「デザインにはすべて理由がある」という話。
理由というのは、「なぜ」である。
論理的な思考は「Why? Why? Why?」と繰り返すため、「感覚による判断」は「論理的な思考」の対極に位置付けられやすい。
かくして、この方向性のデザインはWhy?を繰り返すことになる。
そしてどうなるのだろうか。
その行き先の1つは、「ユーザー」。「ユーザーが言ったから」「ユーザーがこうしたから」。
別の行き先の1つは「ビジネス」。「売上が上がるから」「成長するから」。
関連して「調査」「データ」などが登場する。「調査した結果がそうだったから」「データがそうだったから」。
ここまでが第一段階だとすると、次の段階はどうなるだろう。
Why?を重視するため、そのWhy?を理由に次なるアイデアが選定される。駆動装置になるのだろう。
「ユーザーが言ったから」こうする。
「ユーザーがこうしたから」こうする。
「売上が上がるから」こうする。
「データがそうだったから」こうする。
その結果の判断も、ユーザーが言ったかどうか、ユーザーがしたかどうか、売上が上がったかどうか、データがそう示したかどうかになるだろう。世の中にはそんなループの中で半自動的に動くデザインもあるだろう。
では、ここで改めてWhy?の世界を続けてみよう。
「なぜユーザーなのか?」「なぜビジネスなのか?」
「なぜユーザーが言ったことなのか?」
「なぜユーザーがしたことなのか?」
「なぜ売上なのか?」
「なぜ成長なのか?」
そして、
「なぜ調査なのか?」
「なぜデータなのか?」
さらに、
「なぜそのユーザーを選ぶのか?」
「なぜそのビジネスを選ぶのか?」
「なぜその調査を選ぶのか?」
「なぜそのデータを選ぶのか?」
だんだんとこうなってくる。
「なぜその解釈なのか?」
「なぜその判断なのか?」
最後には、
「なぜそれが良いのか?」
となる。
ここに対する回答は「感覚による判断」になってしまう。
結論としては、こうしてデザインは一周回って「アート」に戻ってくるということ。 (ここでのアートは「感覚による判断」の象徴)
ただ、戻ってくるといっても、横から見ると少し縦軸が移動している。
それなりにWhy?を繰り返すと「感覚による判断」は排除できないということに至る。もしも最初から「感覚による判断」を完全に排除しようとしていると、いつまでたっても、別の何かを求めて彷徨うことになる。
なので「良いと思うものがどういったものなのか?」というのは、デザインにおいて逃れることができない重要なトピックなのだと思う。
というのを漫画にしてみると「Ladders」になりました。